山形論説を再び斬る
あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。箴言21:28
SDAの信徒に無料で配られる信徒教育用月刊誌であるアドベンチストライフに、再び山形正男氏が以下のような論説を書いた。彼はSDAの中では保守的な意見を代表する者とみなされている。しかしながら、前回の安息日問題の認識において看過し難い誤りが見られたのと同様に今回もいくつかの問題を認めるものなれば、山形氏には何度も俎上に上げられて批判の対象にされるのは気の毒な感もあるが、あえて再度の山形正男批判を下のように行って、思慮深い読者の注意を喚起申し上げたい。以下の文で黒文字は嵯峨野教会のコメントであり、深緑文字はアドベンチストライフ(無料配布誌)からの転載である。
論説 山形正男(三育学院短期大学名誉教授)
SDAの宣教メッセージ――アガペーと大争闘
いよいよ二〇〇〇年という二〇世紀最後の年を迎えた。世界総会は、去る九月、二〇〇〇年という年にいかなる宗教的・預言的な意味をも認めない、という見解を公表した。この見解には異論もあろうが、この年が一つの区切りの年であることは確かである。私は、この機会に、二〇世紀を回顧し、二一世紀を展望するためにという願いをこめて、我々の宣教使命について書いてみたいと思う。
2000年に区切りがあるかどうかはSDAには論じることが出来ないし、多分する必要も無いと思われる。かたやカソリックは西暦2000年を大聖年(グランデ・ジュビレオ)と定め、大聖年を象徴する「ポルタ・サンタ(聖なる扉)」を開いた。世界10億人のカソリック信者にとってキリスト生誕二千年(かなり不正確であるが )を祝う怪しげなことを始めている。セブンスデーにそういう愚行を共にする気配が無いのは結構な事であるが、その一方、前世紀からの無ビジョンの状態を引き継いでいるだけという状態は懸念されるものである。
どのように私たちの月のフォーラムではなかった
SDAの宣教使命は何であろうか。その存在意義は何であろうか。それはキリスト教のメッセージである福音宣教に加えて、我々の特殊教理である再臨や安息日などの教理を説くことにある、としばしば言われてきた。そして、SDAは、特殊教理を力説するあまり、福音を効果的に提示できなかった時期があった。
エレン・ホワイトは、一八九〇年に次のように書かれた。
「律法の拘束する要求を提示することにおいて、多くの者はキリストの無限の愛を提示することに失敗した。……律法の要求に関する多くの説教がキリストのない説教であり、この欠乏が魂を改心させることにおいて真理を力のないものにしている」(セレクテッド・メッセージ〈英文〉一巻三七一、三七二ぺージ)。
SDAの存在意義は並み居るプロテスタント教会の中で第七日安息日の真理を回復し、神の戒めに立ち返らせてキリストの再臨に備えさせる事であった。その設立趣旨は教会の名前に表わされたほど明らかで誤解の余地の無いものであった。その熱意を前面に出して律法主義者という非難を受けることもあったが、律法を掲げて神への回帰を説くというこの教会の使命がある以上仕方が無かったことであるといえる。第七日安息日は、他の日曜日を「主の日」とするキリスト教会から見たら、ユニークであるというだけである。安息日第七日、メシアの再臨というのは聖書の特殊教理ではなく、メインテーマなのだ。この名誉教授は明らかにそのような認識をしていない。
私の手元にはSDAを去られた方々の『律法的信仰より恩寵的信仰へ』と『望みの門』という二册の小冊子がある。その二人の日本人の方方は、SDAにいた頃は律法的信仰にあったが、SDAを去って真の福音に接し、今は喜びの信仰生活を送っている、ということを書いておられる。お二人とも数十年前にSDAを去られた方々である。私たちの教会に属しながら、福音の喜びに接することなく教会を去られた方がおられたことは厳粛な事実である。
かつて本当だったかNLP
この山形正男氏がまだセブンスデーアドベンチストの神学校である三育学院の学生であった時分に、実は大量の(20人から30人ばかり)の神学生が大挙してSDA教会を離脱するという事件があった。上記の小冊子を書いた人はその時の離脱者の中の人であろう。だから、そういう離脱の事実は山形の言う通り事実である。そして、これらの人達は多くは他のプロテスタント教会に行って牧師とか他教派教団幹部になったりしているのである。私も私の家内もそういう元三育出身の非SDA教会牧師、伝道者に出会ったことがある。勿論、彼らは「SDAは律法主義者である」とか「危険思想宗教団体である」とか言って、SDAに対するアンタゴニズムを維持して� �るというのが現状である。しかし、彼らが三育を離れたのはそもそもSDAが律法主義だったからであろうか。彼らはそもそもSDAの「ユニークな」安息日とか再臨の教理をあらかじめ知っていてSDAになり、三育の教育を受けることを自ら選んだのではなかったのか。だから彼らが躓いたのはSDAの教理の欠陥にではなく、SDAの人間達に躓いたはずなのである。それが「SDAを去って真の福音に接し、今は喜びの信仰生活を送っている」と言わせているのは、三育の人間達がこの者達にキリストの精神を示すことが出来なかったからである。皮肉な事に、実はこうして昔SDAから離れていった人々は、今メシアニックジューに関心を集めておられるのである。
律法は本来イスラエルの民にとって福音であった。律法も福音も同じ物の裏表に過ぎない。
私は、SDAは何にもまして福音の使者であり、神の愛を力強く証しする民でなければならない、と思う。我々は、福音の根幹である神の愛(アガペー)をより明白に、わかりやすく提示すべきである。そして、教会員一人一人が喜びと平安に満たされた歩みができるようにと願わずにはおれない。
神の愛をわかりやすく提示する最善の方法は、神がこの世界を創られ、神が我らの罪を贖うために犠牲を捧げられたという事実である。神が一人子を十字架にお送りになられた事よりも偉大な愛はない。それは教会のバプテスマクラスで何度も教会員にはすべて教えられてきた。それなのに、このSDA教会が暗くなってしまったのはどういう訳なのか。わかりやすく提示すればよいという問題だけではなかろう。
キリスト教諸教会は、イエス・キリストの生涯と十字架において示された神の愛(アガペー)とその愛によってもたらされる救いが福音宣教の中心的な使信である、と理解している。
アガペーは、人間的愛であるエロースと比較するとき、その崇高さがはっきりする。このことは、すでにニグレンが名著『アガペーとエロース』(一九三〇年)で明らかにして以来、よく用いられる対比である。人の愛であるエロースは、自己本位であり不安定な愛である。それに対して、イエスによって示されたアガペーの愛は、他者をあくまで他者のために愛する不変の愛であり、自己犠牲をも伴う崇高な愛である。
イエスによって示されたアガペーこそまさに福音であり、よき知らせなのである。このような愛こそ我々を「おそれと不安」から取り除く現代のメッセージである(一ヨハネ四ノ七)。SDAは、何よりもこの真理を高く掲げる教会でなければならない。
アガペーを、エロスなどというつまらないものと比べるのは「教会はソープランドよりも清く正しい」と言っているだけである。比較の対象として全く釣り合わないし、浅薄な比較論である。とにかく闇雲に他者を愛する自己犠牲の愛が神の愛だというのであれば、そのようなものは、その辺の博愛ロマンチストや狂信的動物愛護市民団体に任せておけ。アガペーの愛は博愛主義では断じてない。神の愛とは他者をいとおしむだけでなく、その他者の為に何か� ��するという行為を表わしている。愛の情を他者にかけたからといってそれがアガペーなのではなく、実行してこそアガペーなのだ。神はアガペーを十字架の犠牲で成就させた。SDAは一体何で成就させてきたのか?それがシビアに問われるのではないのか?
しかし、我々はここで終わってはならない。ここまでは、他の多くの教会と共有しているメッセージであるからである。SDAはアガペーの使信に大争闘の光をあてて説くことにその存在意義があるのである。そして、そこに福音と特殊教理、特に律法や安息日の教理との接点があるのである。
アガペーを大争闘の視点で説くとは、どのようなことであろうか。それは、アガペーこそキリストとサタンの大争闘の大論点であることを明白にし、それが終わりの時代の一大論点になることを証しすることである。
ここで終わってはならないどころか、その時点でアガペーを全うしたともいえないSDAに、更に先に進むことを要求するとはどういう事だ?足し算も出来ない小学生に掛け算に進めと言っているようなものだ。
これは完璧に誤りである。アガペーが神の属性であるというのは異存はないが、神そのものではない。アガペーとは行いなのだ。これでは山形はおこないを神に祭り上げている事になる。この発言の撤回が要求されるべきではないだろうか。
しかし、サタンは反逆以来神の愛に疑いを抱き、反抗し、神の品性の現れである律法、とりわけ安息日の律法を攻撃してきた。「第七日安息日は十字架により廃止された」という主張は、サタンの有力な欺瞞である。 我々は、十戒がキリスト者の今も守るべき戒めであると信じ、かつその第四条が終末時代の大論点となると理解している。
ここで突然話しが第七日安息日にシフトしている。一体アガペーとどうつながっているのか、唐突に議論がぶち切れているために「わかりやすく」と言っていながら皮肉にも非常にわかり難くなっている。原稿の締め切りにあわせて大あわてで書いたか、量が長すぎてライフの編集者が一部を省略したのではないかと疑われる。
異質の議論を最後は無理矢理ひっつけて、単一の文の結論にしているが、かなり強引なレトリックで、説得力僅少である。私は山形正男氏に自分のホームページを開き、上に見られるような省略や唐突な飛躍をすべて埋めるような説明の論説をインターネットワールドワイドウェブに載せるように薦めたい。そうすれば、我々のこのホームページからも喜んでリンクをするであろう。
(文中敬称略)
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