私は上の私の人生を持っていなかった場合
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今日は塾がお休みだということもありますので、いつもと違った形でのアプローチを。
今だに根強く「暴力的表現のあるゲームによって子供が悪影響を受ける」とか、
「ゲームのリセット感覚で、人生観や暴力などに対して軽い気持ちが形成される(いわゆるゲーム脳)とか、
信じている人がいますよね。
私は学者ではありませんので、「無関係であることを証明する根拠」を持っているわけではありません。
ただし上のような主張をするどんな学者さんよりも、生徒たちと身近に接してきましたし、
また私自身もすごくゲームが好きな人間です。
だから私なりの考えと、また上の考えに対するより大きな問題を書いていこうと思います。
まず上のような問題に対して、実際の学者さんの世界でのお話から。
すでに暴力的・残虐的な表現のゲームをすることで子供たちが影響を受けることは「ほとんどない」というのが
現在の主流の学説です。
私も、上のような意味でゲームが影響を与えることは、ほとんど無いと思います。
現在の暴力的・残虐的な表現は、機械の性能が上がることで描写がリアルであることが原因になっているものが
ほとんどで、逆に暴力性や残虐性をウリにしているものは一部の人しかやっていません。
ただし私も影響が全くないとは言いません。人間の人格が形成されると言われる6歳程度に成長するまでに、
過度の暴力表現や残虐表現がいい影響を与えるとは思わないからです。
そもそも幼児期には、テレビゲームなどよりも、公園で滑り台やジャングルジムで伸び伸びと遊んでいる方が、
数倍もいいことだと思います。
だから私も、子供といっしょにゲームをすることもありますが、基本的にいっしょに体を動かすような遊びを心がけています。
ここに問題提起をしたいことが一つ。
そもそも幼児期に過度の表現を使っているゲームを遊び道具として渡していることが問題である。
・・・と私は思います。
親と子供が遊ぶというのは、とても大切なコミュニケーションの場です。
これがビデオゲームでは、(その表現如何にかかわらず)ゲームのルールで遊ぶことになるのです。
それでは子供が持っている「想像する力」を大きく阻害し、かつ親とのコミュニケーションも限定的なものになるでしょう。
だからゲーム云々では無く、「親は子供と全力で遊ぶ」ことをやる必要があると思います。
私は子供と遊ぶときには、自分が子供の時にやっていた遊びを教えています。
折り紙を折ってみたり、竹とんぼを飛ばしてみたり、紙飛行機を飛ばしてみたり。
公園や、ショッピングモールのキッズコーナーなどでは、100kgを超える私が、その巨体をゆらしながら
滑り台やジャングルジム、トランポリンなどで子供と同じ遊びをやっています。
こういうことが、この時期に必要な教育だと思っているからです。
もちろん、これが唯一解であるかはわかりません。あくまで私が考える「べき論」です。
さて話を戻します。ゲームの悪影響に関しては否定的な意見を書きましたが、その逆は大いにあると思います。
つまり「暴力的・残虐的なことを好む人は、そういうゲームをやりたがる」ということですね。
でもこれは、ゲームの影響とは言えません。また暴力的・残虐的表現を好むこと自体は、
その本人の娯楽の範疇ならば許されるものだと思います。
例えば昔から、ホラーやオカルトを題材にした小説や映画などは数多くあります。
そういうものを娯楽の範囲内で楽しむならば、すでに文化として確立されていると言ってもいいでしょう。
ただしもちろん、反社会的なことを推奨するような気は全くありません。
娯楽の範囲を超えないように、その人なりに楽しんでいれば十分だと思います。
それでも「ゲームばかりやっている子供」に対して、大人はあまりいいイメージを持ちません。
ここにまた、次の問題提起をしたいことがあるのです。
なぜ子供がゲームばかりやっていたらいいイメージを持たないのか。
これはその子供が「何をやっているか分からない」から心配になるのです。
もしもいっしょにテレビを見ているのならば、子供が笑うと「ああ、こういうものが好きなのだ」とわかります。
またその特定のタレントさんのテレビをよく見ているのならば「このタレントさんが好きなんだ」とわかります。
こちらの方は、ものすごく安心するのです。
しかしそれがゲームとなると、子供が「何に興味を持っている」のかが分からない・・・ここが不安のもとなのです。
ただしそのゲームのことも親は分からないので、子供にどう聞いていいのか分からない。
これでコミュニケーションが取れなくなってしまうのですね。
大人でも子供でも、自分が興味を持っていたり、一生懸命がんばったことに関しては、
周りの人に知ってもらって褒めてもらいたい。またそういう自分を認めてもらいたい・・・という欲求があります。
特に子供は、その欲求の矛先が親に向きがちです。
・・・つまり、親から認めてもらい、褒めてもらいたいのですね。
しかし興味を持っているゲームに対して認めてもらうことが無ければ、よりゲームに没頭することになったり、
認めてもらうために逆に反抗してみたり・・・と、あまり良くない行動に進みがちです。
これを解消するには、子供が興味を持っているものに目線を合わせるのが効果的です。
ゲームばかりするのなら、「どんなゲームなの?」「お父さん(お母さん)にもできるかな?」「どうすれば強くなる?」など
その興味あるものを通じて、コミュニケーションをとっていきましょう。
また私が問題に思っているのは、子供がゲームをするように、大人は何をやっているのか・・・ということ。
もしかしたら「携帯電話やモバイル端末ばかり、ずっと触っていたりしませんか?」
携帯電話などは昨日のブログ記事にも書いていますが、かなり没頭してしまいます。
その間子供は、コミュニケーションをとることができません。これもかなりの問題です。
言い換えれば「子供がゲームをしている」と、何を楽しんでいるのか分からないから不安になるように
「親が携帯電話などにハマっている」と、子供も親が何を楽しんでいるのか分からないのです。
かなり長くなりましたが、以上のことから、ゲームの良し悪しを単純に評価するのではなく、
より重要視すべきものを基準として、それにゲームが利用できるのかできないのか・・・ということなのです。
私は「親子間のコミュニケーション」がかなり大事なことだと思っています。
だからコミュニケーションをとる方法としてゲームを行うことは、かなり有効ではないかと思います。
ただしゲームしか与えずにコミュニケーションをとらないようにしていると、問題を生じる可能性がある。
これがゲームと子供の間にある問題の本質だと信じています。
・・・暴力的・残虐的表現は、あまり主たるテーマでは無いんですよね。
最後に、ゲーム脳などの批判に対して、より大きな問題を一つ。
ゲームなどを否定することで思考を停止していると、現実の問題からどんどんと追い越されていきます。
現在ゲームに関して一番問題だと思うのが、携帯電話などの(課金制)ソーシャルゲームです。
テレビのCMを見ていると、「無料で遊べる~」と宣伝しているゲームが数多くあります。
しかし現実的に、無料で十分に遊べるのならば、宣伝の費用などできるわけありませんよね。
実際はすでにビデオゲーム業界は、こういうソーシャルゲームの波に飲まれています。
無料のゲームだから・・・手持ちの携帯電話で遊ばせてあげられるから・・・なんて気軽に考えていると
かなり危険だと言えます。
例えばそういうゲームを与える親御さんが、毎回「利用許諾証明」を確認しているでしょうか。
確認しないまま遊ばせていないでしょうか。ちょっとしたおもちゃを買う・・・程度の認識で、
課金を了承していないでしょうか。
これをしっかりしていないと、かなり高額な「社会の授業料」を払うことになりますよ。
つまりゲーム自体を論じているだけでは、現実の問題に目が届かなくなる可能性が高いのです。
(実際、ゲーム脳などを主張していた学者さんは、発達心理や教育心理などが専門の方が多かったはずで、
そういう方々がいちいちソーシャルゲームなどを研究対象にするでしょうか)
ということで、私の意見は次の四点にまとめられます。
1,人格形成もままならない幼児期に、ゲームを遊び道具として与えてしまうことはいかがなものか。
2,「ゲーム」を知らないまま批判するのは、それを楽しんでいる子供に対していかがなものか。
3,大人自身も、「ゲームばかりする子供」のような状態になってはいないだろうか。
4,ソーシャルゲームに代表される「現実の問題」がちゃんと認識されているだろうか。
おそらくこういう事を詳しく検討していけば、ゲームが子供に与える影響だけでなく、
子供とのコミュニケーションの望ましい姿が見えてくるのではないかと思います。
明日から少しだけ、子供を見る目、子供に接する方法に変化を付けてみてはいかがでしょう。
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