聖書は姦淫について言っていること
聖書の言葉の解釈・英文の聖書翻訳: 今日は、あまり言いたくないことを書きます。昨年6月に出た「超訳聖書の言葉」(白鳥春彦、幻冬舎、206頁、税込1,000円)を数か月順番待ちの末、借りてきました。この本は、かなり宣伝されていて、人気も高いようです。表題も私のブログとかかわりが深いように思えます。
そこで、この本には以前から、かなり関心を持っていました。しかし自分で買うのは、もったいないので順番待ちをしました。ここへきて本の返却日が迫り、しかも重要な内容なので緊急に書きます。「まえがき」(3〜10ページ)を中心に、一昨日この本をじっくり読みました。「まえがき」は、さすがに宗教学者らしく、良くまとめられています。聖書は約全66巻だとか、断片的知識は正確なようです。その方面の知識を得ようとする向きには有益です。この意味で、この「まえがき」は分り易い文章で、さすがと感心しました。
しかし、「まえがき」の中で、すぐに気になった文章があります。
その一つは、『神の別称が愛なのである。それは性愛をも含んだ大きな意味の愛である。(同9ページ)』というところです。確かに、『神様は愛です。(1ヨハネ(ジョン(ヨハネの手紙一)4章16b、Good News Bible.Good News Translation, 1JOHN4.16bの翻訳)とは聖書に書いてあります。しかし『神様の別称が愛??』なのではありません。少なくとも『普通の意味で、私たちが使っている愛』なのではありません。神様のご性格の代表的な特徴が、『ほんとうの意味での愛』なのです。
さらに、『性愛をも含んだ愛』と書いてありますが、聖書で表現されている性欲を伴った愛、つまり「性愛」も、正確には、神様を愛する「ほんとうの愛」を巻き込んだ、『信仰に従って性欲を持って愛する愛』のことです。不信者が言う、いわゆる『普通の意味での性愛』ではありません。
二つ目に気になるのは、『信仰とは、神を拝むことではなく、人が互いに愛し合うことなのだ。(同10ページ)』という個所です。
これは、信仰を分らない聖書の門外漢が書いたとしか思えません。確かに、「信仰とは、形式的に神様を拝むことではありません!」しかし、「人が互いに愛し合うこと。」という個所を、「信仰によって、神様を間(あいだ)において、互いに愛し合う」と書かないと、「聖書に書かれている愛」について間違った解釈を生み危険です。
これはたぶん、作者に、「神様を間に置く」という意識がまったくないから、そのように書いているのに違いないでしょう。
つぎに本文を読みにかかりました。しかしこれは、著者の価値順位観を述べるために書かれた文章としか思えないものばかりでした。そこで、全部を詳しく読む気には、なれませんでした。
いったい「超訳」とはどういう意味かを考えました。それはたぶん、「自分の価値順位観を述べるために、他人が書いた文章を書きかえる作業」のことを言っているのだと思いました。
そういう作業は、自分の考えをまとめるのには有益です。しかし、よほどオリジナルの文章の精神をよく理解した人でない限り、オリジナルの文章の精神を伝えるのには、無益で、ときに有害です。
【聖書への誤解】
さらに、本文の第130項の「情欲と姦通」(158頁)を読んでみました。書き直したのですから、マテオによる福音書5章とあるだけで、節(せつ)は書いてありません。
そこの超訳【解説あるいは氏の解釈による書き換え】は、案の定2000年間続いたキリスト教界の誤った解釈にも基づいていました。
白鳥氏は、「情欲を抱いて女を見つめるならば、すでに姦通を犯しているのと同じだ。」と書き、「人のこころの思いは、実際の行いと同じくらい重要だからだ。」と結びました。これは、よくあるまったく間違った解釈の一つです。だいいち、「情欲」という言葉があいまいなのです。「性欲」という意味だと思うのです。それに、見つめるのでなければ良いのですかねえ。そのうえ、「心の思いが、実際の行いと同じくらい重要だ。」というのは、悪い意味での日本人的な発想です。
確かに、『28 しかし、わたしはあなたたちに言うけれど:女を見て、その女を自分自身のものにしたいと思う人は、だれでも心の中で、姦淫の罪を犯したことになります。マスューによる福音5章28節、Good News Bible.Good News Translation,MATTHEW5.28.の翻訳)』とジーザスは言いました。しかし、これは、ファリシーズの人たちが、「自分は姦淫の罪を犯していない。」と言い張ろうとしていた「こころの偽り」を、ジーザスが指摘したかったから言ったのです。
多くの人たちは、確かに、体が接触する意味での姦淫の罪は行っていないかも知れません。けれど、女性を見て、仲良くなりたいと思ったり、かわいいとか、見つめていたいとか思って、「性欲」を持って女性を見たけれど、気がとがめなかったことは何度もあるはずです。それは、そういうことを思うことを自分にゆるし、それを悪いとは思っていなかった証拠です。
つまり心の中では、女性を見て、うまくゆけば、ちょっとでも仲良くしたいと思うのは性的欲望の自然ななりゆきであると認めているわけです。それなのに、実際には、人の前では、聖書の戒律を盾にとって、そういうことを、悪いこととして責めるのは、実に、矛盾した心、心の不誠実、心のウソ、心の無責任、心の偽りです。そこをジーザスは指摘したのです。
「姦淫の罪」にも、いろいろな程度はあるでしょう。心の中で、ちょっと素敵だなと思って相手を見る程度から、男女双方が心が惹かれる段階、あるいは愛がない犯罪的なもの、そして暴力的なものまであると思います。しかし、ジーザスは、ここでは、その程度をどこまでなら許せるという風には言いませんでした。
ただ、心の中では、日常的に性欲に従って異性を慕うことを良いと認め、しかもそれを実行もしているているのに、口では、ほかの人の「姦淫の罪のおこない」を責める。そのこころの矛盾、心の偽り、心の傲慢さをジーザスは指摘したかったのです。
≪まとめ≫
1.この『超訳 聖書の言葉』は聖書の精神を伝えるのに有害な書物です。
2.たとえば、白鳥春彦氏が言うように、「人のこころの思いが、実際の行いと同じくらい重要」だから、ジーザスが、ここで心の思いを責めたのではありません!
犯罪的な場合を除き、心の思いで、性的な欲望をいだくことを日常的に行い、それを自分に対しては認め、当然のように受け入れているくせに、表面だっては、「姦淫の罪に反対して責める」、そして自分は「君子のふりをする」。 その心のウソ、そのこころの不真実さ、そのこころの虚偽さ、そのこころの傲慢さを、ジーザスは耐えられずに責めたのです。
3.【こころがピュアーとは?】
それでは、これとは正反対に、心の中では、少しも異性を慕う気持ちを持たなければ、人は清くて良いのでしょうか、それなら、こころがピュアーなのでしょうか?そのとおりだ!と言うのは、誤った観念的なピューリタン、超保守的なキリスト教徒たちです。これは、大間違いのキリスト教です。これは、『性欲(性的欲望)』という、神様が与えてくださった『貴重な恵みの本能』を否定する間違いを含むからです。その解釈は、生きることを否定したり、長生きすることを軽視したり、健康を保つことを否定したりするのと同じように、最終的には人を殺すことになる、恐ろしい悪魔的な解釈だと言わざるを得ません。
(2012.2.2.)
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